湯河原小旅行にて・・・・
まずは、湯河原駅から成願寺へ
境内にひっそりと咲き始めた紫陽花
山門
成願寺から五所神社ヘ向かう途中にて
五所神社
『御神木の楠』
神社正面の鳥居をくぐり階段を登ると右側に聳える樹齢約850年の御神木の楠に直接触れて、神様のお力を戴いて下さい。
・昭和五十九年十二月【かながわの名木百選】に指定される。
・平成九年五月 町の天然記念物に指定される。
樹齢推定850年 樹高36m 胸高周囲8.2m
元は名古屋城内にあり、戦後この「福泉寺」(ふくせんじ)に奉納されたという陶製の釈迦像。
名古屋城主徳川光友公が、亡き母を弔わんとして造られたといわれています。
名古屋にあったときには首から下もあったとそうですが、胴体の方はどこへいってしまったのでしょうか?
福泉寺から万葉公園に向かう途中で
万葉公園(たぬきの伝説)
むかしむかし、或る頃、湯河原の渓谷を囲む箱根連山の向こう側、駿河の国(静岡県)の三島宿の奥山で、年老いた一匹のたぬきが平穏な毎日を過ごしていたが、或る冬の暖かい日、時ならぬ暖冬の日差しに浮かれ、昼間というのについうかうかと近所の山に好きなえさを探しに出かけた。
すると不意に心ない猟師の弓矢が飛んできて、ぐさっと右後ろ足の根本深く突き刺さった。
驚きと痛さを引きずっていったんは木陰に身を隠したものの、長居はできず、夜陰をうかがい住み慣れた我が家を後に、箱根の山に降り積もる雪に残る足跡を気遣いつつ、逃げてきたのが湯河原の渓谷であった。
ようやく落ち着きを取り戻したたぬきに、襲ってきたものは、後ろ足の矢傷の痛みである。
舌でなんべんなめてもさらに痛みは消えない。
その時、この老いたたぬきの目に映ったものは、谷の岩間から立ち昇る温泉の湯煙であった。
喜んだたぬきは、早速にその湯で傷を洗っているうちに、予定した日柄よりはるかに早く全快した。
やがて春となった或る日、この老いたたぬきが、春光をあびながらこの度の不慮の災難のことを思うにつけ、不思議な湯河原温泉の恵にいたく感謝し、「これこそ、神仏のご加護というものだ。このご恩を何とかお返ししなければ」と考えた。
その頃の湯河原の谷は、きこりか、山越えの人しか通る者はなかった。しかも、人影を見る日はまれな事であった。
やがて、春も過ぎ、夏も過ぎ、山萩が薄紅の小花をこぼす涼風の立つ頃となった或る日のこと、三島宿に商用に出かけた湯河原の下村に住む弥作が、商売も早く終わったのでこの分なら今日は山を越えても日暮れまでには家に帰れると思い、日金道深く入ったが、めったに通らない道にとうとう道に迷ってしまった。
尋ねる人にも会えず、民家もなく、ようやくのことで湯河原の渓谷にたどりついた時には、日はとっぷりと暮れ果て、それでなくても暗い木の間の山道はいやが上に暗くなって、疲労がひとしお身にしみた。
弥作は、我知らずそばの岩に身を寄せて、ため息をついた時だった。
どこからともなく一陣の風が通り過ぎ、目の前の紅葉した楓の葉を二、三枚はらはら散らしたかと思うと、なんともいえない香りがあたりにただよい、そこに妙齢の美女が頬にえくぼを浮かべて現れた。
三島の宿にもこんな美しい女郎はいないと、弥作は途端に思った。
しかもその美女が、玉をころがすような美しい声で、「弥作さん、大変お疲れですね。この先に温泉が湧いているところがありますから、ひと浴びするとすっと疲れがぬけますよ。妾がご案内しましょう。」と言うままに、弥作は「狐に鼻をつままれるとはこんな事かいな。」などと思いながら美女の後についてきてみると、なる程、岩陰に透き通った温泉が湯煙立てて溢れていた。
弥作はすぐに汗に汚れた旅衣を脱ぎ捨てて、湯壷に全身を沈め、身体を思う存分に伸ばした。
さて、ふと気がつくと、先刻の女郎はいつのまにかそこには影も形も見なかった。
疲れを取り戻した弥作は走って我が家へ帰り、家人はもちろん、近隣の人々に話を伝えた。
話はたちまち近村にまで広がった。
怨念をこえて神仏の恩を人間に返した、この老狸の奇特であることが、誰いうとなく知れ渡り語り伝えられた。
終戦後、心ある人々が万葉公園に狸福神社を祀り、今尚人々に愛されている。
(湯河原町HPより)
不動滝へ(本日の終点)
翌日早朝、大滝ホテルから奥湯河原へ散策。
小さな旅でした・・・・・
奥湯河原は紅葉が大変多く、紅葉楽しめるのかな〜
朝は新緑の香りが溢れていました。
X100F T-2・XF56mm/1.2
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