お三の宮日枝神社界隈

お三の宮日枝神社界隈
現在の横浜市の中心部、中区と南区に亘る大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線からお三の宮所在地まで(関外地区)広い範囲は、釣鐘の形をした入海でしたが、今からおよそ三五〇年前に、江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた吉田勘兵衛良信という商人が、この入海を埋立て新田を築きました。
(=吉田新田)
この大工事は、明暦二年七月十七日に鍬入れをしましたが、翌年の五月十日より十三日に亘る集中豪雨の為に失敗に終わります。しかし、万治二年二月十一日に再度試みて、寛文七年、十一年余りの歳月と八千三十八両の巨費により、市内最古で最大規模(およそ三十五万坪)を誇る新田開発を成し遂げることが出来たのです。
そこで勘兵衛は、新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に、寛文十三年(一六七三)九月、新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈り、江戸の山王社(今の旧官幣大社日枝神社)より勧請し、山王社と併せて稲荷社を創建したのであります。
この御由緒により『横浜開拓の守護神』として、氏子をはじめ横浜の普く人々に御崇敬を戴いているのです。( 吉田新田埋立の最初の工事(明暦二年)は、大雨による川の氾濫により失敗に終わりました。
そこで勘兵衛は、再度の埋立工事の成功を成就するために居住地の氏神赤坂の山王社(後の旧官幣大社日枝神社)に詣で、更に日頃念ずる日蓮宗総本山身延山久遠寺に参ったところ、訳あって夫の仇を討ちたいと諸国を流浪していた「お三」という女性にめぐりあいました。勘兵衛は、私の家に暫く身を寄せて時期を待つよう促し、家族の一員として向かえるに至りました。こうした機縁で、お三は勘兵衛家に仕える事となりました。

 再度の埋立開始が決まった万治二年のある日、お三は勘兵衛に向かい、「今度の事業は容易ではないと思います。神仏を深く帰依なさる旦那様には、必ずやご加護があることと信じますが、古来人柱をたてるとその験があると聞き及んでいます。」と日頃のご恩に報いるのはこの時と、自ら人柱になりたいと申し出ました。勘兵衛はお三の殊勝な心がけを喜び感謝しながらも、人命の尊さを説いて押し止めたがお三は聞き入れなかったといいます。
伝説があります。
 同年九月十三日、波打ち際(現神社裏)より白衣に身をつつんだお三は、合掌して天を仰ぎ大海に身を投じ、埋立の大事業完遂の人柱となったとのことです。

 このように難行を続けた工事も、お三の人柱によって成し遂げることが出来たのであります。(HPより)
小さいころは、若い女性が「人柱」にされたと聞いてました。

Leica M (240)ヴォクトレンダー50MM/1.5 ASPH.









道慶橋付近のお地蔵様 

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